2015.2.17(火)
日本人は対人恐怖症になりやすい?
ネットではよく「対人恐怖症は日本人しかならない」といった言葉を見かけます。たしかに日本人がかかりやすい恐怖症なのかもしれませんが、いうまでもなくこれは日本人だけの病気ではありません。世界中にこの恐怖症で悩む人はいます。
ですが気になるのは「日本人に多い」と言われる所以。その謎についてまとめます。
日本における対人関係
日本人は他の国の人と比べると、「ボディタッチ」「スキンシップ」など人との接触が少ない傾向にあると心理学で証明されています。なぜだか、他人と接することが疎ましいような・・・そんなよくわからない感覚が少なくとも私にはありました。
それでは、日本人は昔からこんな感じだったのでしょうか。
多分違いますね。昔の日本の文化を見ていると今よりも結構、精神的に自由な感じがしませんか?
特に江戸時代の江戸は、火事が多発するため町民同士で協力する習慣があったり、お湯の節約のために混浴があったり、人と間近で接触する風習が多かったように思います。
ところで森田療法を知っていますか?大正時代に森田先生によって提案された神経質に対する精神療法です。
つまり大正時代にはすでに、そういう悩みを抱える人がいたんですね。(いつの時代にもいるとは思いますが)
大正は西洋文化が入ってきて間もない時期だと思います。
多分みんな、今までの人との接し方と違う接し方が導入されたことで、戸惑ってしまったんです。 人との距離感がわからなくなったり、自我の持ちかたもわからなくなったり。結果、それらが悪化して対人恐怖症、さらに悪化して人格障害に・・・。
しかも昭和には戦争に負け、アメリカの文化が入ってきます。
もみくちゃにされた近代
こうして日本は、外から入ってきた異質の情報に振り回されてしまったんだと思います。前回の記事:自我の暴走で起こる対人恐怖、自我の暴走を見つめる瞑想でもまとめましたが、自我は外からの情報に翻弄されやすい存在です。
当時も本当に混乱していたと思います。今だって、混乱中です。
外来文化は、本来日本文化と相性が悪かったんでしょう。
日本は西洋の方式を取り入れてまだ200年も経っていません。
戦後でいうなら、なんとまだ100年も経っていません!
今の風習は、ほとんどの普通の国民にとっては、ただただ意味もわからぬまま押し付けられた風習です。
ゆっくり1000年以上時間をかけて積み立ててきた風習は、だんだん消えています。
私たちは有名な幕末の志士たちがいた頃とはまったく異質の生活をしているんです。不思議ですね。
これらの激動の時代の変化も、対人恐怖症が増えてしまった理由のうちの一つかな、と思います。
日本人は自我の形成が下手?!
いえいえ、際立ってそんなことはありません。他の国も子供の自我の育成で色々試行錯誤しているようです。イギリスでは自尊心を高めるための教育方針にしたら、中身のない自信満々人間が続々と生まれてしまったり・・・。
日本にも中身のない自信過剰人間、いますよね。
しかもそういう人間は外にストレスを撒き散らす質なので本当に厄介です。笑
ところで対人恐怖症は、内側に不満を溜め込んでしまった結果発症するのだと前回まとめました。(記事:対人恐怖の原因とは)
そのうちいっぱいになってしまって外に漏れ出てきますよね。
ストレスを周りに発散する人には、周りの人間が五万といるわけですから発散し放題でしょうが(いい迷惑)、一人の体に抱え込むのはいつか限界がきます。
ではそれらのストレスは一体何のストレスなのかというと、自我に振り回されることへのストレスなんです。続きは関連の記事に読みに行っていただきたいです。
人間の自我の育成って、本当に難しいことなのかもしれません。
でもうまくいったなら、明るい生活を送ることができます。
本来人には自分の軸があります。
周りの情報に踊らされてそれを見失った状態で混乱していると、人に当り散らしたり、逆に自分の中に抱え込んだりといいことがありません。
日本人が対人恐怖症になりやすい気がするのは、内側に溜め込みやすいからです。
内側に抱え込むのは、世界から見ると結構すごいことです。他人を傷つけないようにしたい、とか、でも自分も傷つきたくない、という気持ちはとても大切です。
その溜め込んだものが、大きな経験と力になることもあるのですから。
同じ不安障害でも、周りに喚き散らす迷惑な人間は嫌でしょう?
一応、内側に抱え込むのは、外側に撒き散らすよりましかもしれません。
でも抱え込んだものを解放する方が、段違いに良いのです。だから自我の歪みを治していきましょう。
あとがき
日本はガラパゴスだとか言われますが、それは世界に一つしかないということ。
正確にはどの国だって世界に一つだけですが、日本は特に、独特な気がします。
どこの国にもない「気の持ち方」「他人への敬い」。とても貴重です。誰だって絶滅危惧種など希少なものを大事にしますよね。わたしも、大事にしたいです。
でも自分が見ている世界や環境っていうのは、自分が産み出したものに過ぎません。
もし他の人と中身を入れ替わることができたとしたら。その人から見る世界はどう見えるでしょうか?きっと自分の世界とは違っているでしょうね。
すぐ近くにいる他人と中身を入れ替わっただけでも、きっと世界はガラリと変わってしまうんです。
だからこそ、自分の世界は自分のものでしかないと、自分の視野がいびつなのだと気づきました。
子供は環境に育てられるのに、なぜ自分の責任にされるんだろうと怒りが湧きました。
でもよく考えたら、人生の責任という重みを背負えるのは一人だけ。 自分しかいません。
責任を無動の相手に投げつけたところで、相手は興味も示しません。投げつけられた責任なんて放っておくでしょう。それを投げつけておいてほっと一息ついても、投げつけた責任にも、投げつけた相手にも何も起こらず、ただ変わらずあるだけです。「思考停止」状態ですね。
でも責任を自分のもとに置いておくと、その責任は自分を成長をさせる原動力になりうるんです。責任を背負うことで心の筋肉が鍛えられて、心が丈夫になって、やがて余計な外部の邪な情報なんて、意にも介さなくなるんです。
責任はポケモンでいう進化の石なんです。
誰も自分の人生に無関心の人のことなんて、気にしません。
でも自分の人生に責任を持ち輝く人のことを、気にかけてくれる人はたくさんいます。
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